◆糸で繋いであげようか◆《オリジナル/この世でいちばんの不幸》



「イチ。ほころびてるぞ」

 長い指先が指した個所を見て、ああ、とイチはうなずいた。着ていたフリースの袖口の縫い糸が、すっかりほつれてしまっていた。

 そういえば今朝、この家の飼い猫に思いきりじゃれ付かれたのだった。

「……ペン太だ」

「ああ」

 まあそうだろうな、という風に狐原がうなずく。もう一匹の巴と違ってまだまだ若いペン太は、時折見境をなくしてじゃれつくことがある。巴にひっぱたかれればしゅんとなってしまうのだが。

「ほら。貸せ」

「え?」

「繕ってやる」

「え、いや……」

「さっさとしろ」

 別にいい、と言うまもなく狐原はソーイングセットを取り出していた。

 何故そんなものが事務所の机に入っているのだろう。

「慣れてるからな。お前が自分で直すより、綺麗にしてやる」

「………」

 針仕事は確かに得手ではない。せいぜいボタンをつけるくらいだ。

 なんとなく気後れしながらフリースの上着を脱いで渡すと、替わりに椅子の背にかけてあったひざ掛けが投げられた。

「掛けておけ」

「……ああ、…ありがとう」

 ありがとう、という言葉が、いつのまにか口に付き始めた。

 それは、この家に来た頃には口にするのが面映い、慣れない言葉だったのに。

 木綿の黒い糸を引き出し、針穴に通してくるくると針に巻きつけ玉を作る狐原の一連の仕草は、流れるようだった。見ているうちにあっという間にほつれた個所が縫われ、さらに空いていた小さな穴がかがられる。

 玉止めをしてはさみで切ると、ほら、と狐原はフリースを差し出した。

「……すごい。わからなくなってる」

「小さい穴だったからな」

 表から見ればかがられた場所はほとんどわからない。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 にや、と狐原が笑う。

「イチは不器用だそうだからな。これくらいならいつでもやってやる。ああ、もちろん明里もできるぞ」

「………」

「そのほうがいいかもな。明里に可愛く言ってみろ、大喜びで繕ってくれる。うっかりすると裁縫まで始めるかもしれないぞ」

「……やりかねないからやめてくれ」

 うっかりかたかたミシンを使っている明里を想像してしまった。

 似合いすぎる。

「あんたも、慣れてるな」

「ああ。弟どもの服をよく繕ったからな。まったく乱暴者ばかりでな」

 しれっとした顔でそんなことを言う狐原に呆れてしまう。

 その乱暴な弟どもは一度も喧嘩で兄に勝ったことがない、といつか言っていたのは明里だっただろうか。

「あんたが言うなよ」

「ははは」

 ぱちん、音を立てて狐原がソーイングケースを閉じた。

「まあ、ガキは服を破くもんだ。ここに入ってるからオレがいない時には好きに使ってもいいぞ」

「……ああ」

 ガキじゃない、という反論は狐原の前では余計に子どもじみているだろう。

 イチがうなずくと同時に、リン、と電話が鳴った。これでないと電話という気がしないと主張する所長のせいで、この事務所の電話は着信音のみ黒電話のままだ。

「はい。東乃なんでも屋です」

 狐原が電話に出る声を聞きながら、イチも手元の書類をまとめる作業に戻った。

 白い紙の片隅にナンバーを振りながら、ほつれていない袖口にふと笑みがこぼれる。

 その柔らかな笑いは、ずいぶんと長い間、イチの口元を彩っていた。

 

 2007/03/20

 

 オリジナル本より。
 狐原とイチのコンビも結構好きです。でもイチはちょっとだけ狐原が苦手かもしれません。嫌いじゃないですが。このシリーズ事件ばっかりなので日常の可愛い話をまとめた本を出したい…。